フェアレディZ&フェアレディ

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フェアレディZ&フェアレディ
FAIRLADY Z & FAIRLADY

フェアレディZはロングノーズ、ショートデッキで、当時憧れのスポーツカーだった。 その車がアメリカで爆発的に売れたニュースを聞き、日本人が誇らしくみえた。 その陰にはアメリカ日産の社長だった片山豊の血のにじむような苦労があった。 また、フェアレディZにつながるフェアレディの前モデルがあったからこそ、 フェアレディZの成功があったことは忘れてはならない。

カラーページ掲載

  • S30フェアレディ240ZG 3台
  • フェアレディZ432-R 2台
  • フェアレディZ432 4台
  • フェアレディZ-L 2台
  • SP&SRフェアレディ2000 5台
  • フェアレディ1600 1台
  • フェアレディ1500 1台
  • S130&Z31フェアレディ280Z 3台
  • フェアレディ2000ターボZ-T 3台
  • フェアレディZ2BY2・300ZX 1台

モノクロページ掲載

  • STORY フェアレディの歴史
  • 佐々木健一、フェアレディを語る
  • フェアレディZの新事実に迫る 武井道男
  • フェアレディで69日本GPに優勝した男水野善作
  • フェアレディにこだわり続けた男大塚光博

L24型にこだわる人のZだ

フェアレディZはロングノーズ、ショートデッキで、当時憧れのスポーツカーだった。 その車がアメリカで爆発的に売れたニュースを聞き、日本人が誇らしくみえた。 その陰にはアメリカ日産の社長だった片山豊の血のにじむような苦労があった。 また、フェアレディZにつながるフェアレディの前モデルがあったからこそ、 フェアレディZの成功があったことは忘れてはならない。フェアレディZは69年10月にSP/SRフェアレディの後継車として登場した。
オープンカーから激変したモデルチェンジだったが、時代を巧みにとらえた日産の代表作になった。
クローズドボディの2シーターは、トヨタ2000GTとは違ったテイストがあった。スカイラインGT-Rとほとんど同じのS20型エンジンを搭載したフェアレディZ432は185万円と高価であった。そのエンジンはプリンスR380に積まれていたレーシングエンジンのGR8型を設計したスタッフが、市販のために設計したものだった。
しかし、そのメンテナンスは非常に難しく、ディーラーによく苦情が持ち込まれた。フェアレディZ432と人気を二分するのがフェアレディ240Zである。
エンジンはL24型水冷直列6気筒OHCで最高出力は150ps/5600rpm。S20型より10ps低いが、トルクフルな余裕のある加速感が売り物だった。このフェアレディ240Zは主にアメリカ輸出のために開発されたもので、世界一売れたスポーツカーになった。
ダットサン240Zという名前で愛され現在もアメリカのZカークラブは活発に活動している。
日本ではグランドノーズを装着した240ZGの人気が高い。

スパルタンな男のSP/SRフェアレディ2000

フェアレディの中で最も獰猛(どうもう)なのが、1967年3月に発売されたフェアレディ2000だ。型式名はSR311。フェアレディ1600はSP311である。 フェアレディ2000の性能は、当時の国産車の中で群を抜いていた。スタイルはフェアレディ1600と大差のないものだったが、性能は飛躍的に向上している。エンジンはU型、水冷直列4気筒OHCで、ボアとストロークは87.2・×83.0・である。ストロークはフェアレディ1600と同じだ。
トランスミッションは、CSPシルビアやフェアレディ1600と同じポルシェタイプサーボシンクロの5速である。
標準仕様のほか2種類のものがチョイスできる。標準のギアレシオは次期モデルのフェアレディZ432と同じである。
ファイナルレシオも7種類から選べた。このミッションを駆使したゼロヨンタイムは15.4秒を記録し、当時最速を誇った。
最高速度は200km/hを突破し、205km/hに達した。

ダットサン240Zを全米でベストセラーにした男 片山豊

97歳(当時)の片山がアメリカ日産の秘話を語った 片山豊の挑戦は50歳の時、始まった。 アメリカ日産の社長になり、本社に対してアメリカで売れるスポーツカーを提案した。 それがダットサン240Zである。 この車はアメリカの若者の心をしっかりとらえ、世界一のスポーツカーになった。

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